2015年07月18日

古典落語についてほんの少しだけ考える

今朝
三代目桂三木助の「宿屋の富」という古典落語を聞いたんだけれど、
「今だったら、ここまで登場人物のやり取りを繰り返さないだろうなぁ。」と、その時代の言葉の流れとか、『間合い』とか『言葉の繰り返し』というものが、あるんだなぁと感じたね。

落語、特に古典落語って『古典』なんだけれど、現代の人が言葉だけで伝えるという日本独自の文化の形態なんだよね。
んで、当然のことながら古典だから昔の言葉、現代では死語として、誰も使っていないし知らないWORDが入っている場合もあるのね。
だから、頭のある演者=噺家さんは、解説臭くなくそのWORDについて噺の中に組み込んでいるのね。この技は先ごろ亡くなった桂米朝さんが本当にうまぁくマクラにはめ込んでいて、その言葉とかシーンが物語の後半、終盤に登場して来ても聴衆は、「あ〜〜なるほどねぇ」と違和感なく、疑問無くその話芸の世界観に浸ることが出来るわけなのね。
とっころが頭の無い若手というやつは、昔のものは昔のまんま一言一句コピーすることが正しいと思い込んで、演じる馬鹿が居るんだよね。

これを厳格に咎めたのが家元・立川談志だったね。
『言葉ってぇのは生きているんだ。それが古典芸能と呼ばれる過去のものであろうが、生きた今に生きる人間が喋っているんだから、今と過去を繋ぎつつ、現代人に違和感なく過去を見せるのが噺家ってぇものだ』と言っていた。
歌人の俵万智が、国語審議会において皆が「日本語が乱れている」という多勢の流れに対して「日本語は揺れている」と評して「言葉は生きている。生きているからこそ揺れることが出来、生きているからこそ時代に応じた姿かたちをかえている。言葉は生きている。」と発言したのと同じであろうと思う。

立川談志の弟子で、現代の落語家の中で、最もチケットが撮りにくい一人・立川談春が演じる「文七元結」という噺がある。古典落語の名作と呼ばれる作品で、左官の長兵衛親方に吉原の大店『佐野槌(さのづち)』の女将が説教するくだりがあるんだけれど、六代目圓生の「文七元結」では、この説教部分の会話は、まったくの『静』で流れていくけれど、談春のここは『動』なんだよね。会話の中で博打の親方の目利きについて説明しているんだな。よくぞこれを組み込んだ、それも何の違和感もなくと感心するんだな。

三代目桂三木助の「宿屋の富」に戻ると、当然のことながらこれはライブ音源でどこかの寄席かホールで録音されたものであるのね。
やはり名人と呼ばれた方であるから、あたしのような素人が聞いていても流れと情景が頭の中で映像が結ばれる。
しかしながらその時代の『間合い』と繰り返しは「ここでもう一度繰り返すのかぁ?その先をはやく・・・」と少なからず感じてしまうんだよね。
現代に合わせた『間』と『流れ』を持って噺を演じることが出来る方が居てくれればと思うんですが、過去の音と間と流れであることが尊いのかもしれないね。
今新たにこの噺をわざわざ聞く必要はないよなぁ。
posted by 宇之助 at 16:10| Comment(0) | TrackBack(0) | ◯◯について考える